顰めっ面に犬




ビルから出たと同時に、冷たい風が、ハニガンの下ろした髪を靡かせる。
「さむっ……」
つい口から弱音が零れた。まだ暦の上では秋だが、今夜は冬に近い風の冷たさだ。
徐々に冬へ近付くにつれ、『暖房の効いていた場所から外へ出る』事が億劫になる。
そろそろマフラーと手袋もクローゼットの奥から出そうかしら、などと思いながら、肩にバッグをかけ直すと、
両手をコートのポケットに突っ込んだ。
道に沿って植えられた木々の葉もほどほどに落ち、風に吹かれるままアスファルトの上を滑っていく。
こんなに冷えるとは。今日はメガネではなくてコンタクトにしておいて正解だった、とハニガンは思う。
寒い時期、外と暖房の効いた室内とを出入りする度にメガネが曇る現象は、仕方ないと頭では解っていても、
真っ白に曇る度にハニガンの気分を害した。
すん、と軽く鼻を啜って、ハニガンは地下鉄の駅へと向かう足を速めた。

それなりに広い並木道の、現在の人通りは多くない。
とっくに通勤帰りの時間帯は過ぎている。この時間に歩いている人間は『残業』の同志だろう。
寒さのせいか、疲れのせいか、自分と同じように皆足早のように思えた。
はぁ、と吐く息は白い。
(家に着いたら、着替えるより先に温かいコーヒーを飲むわ。
 暖まったらシャワーを浴びて、眠くなる限界まで撮り溜めたドラマを観るんだから)
明日は休みだから、夜更かしでも何でもありだ、と自分に囁いて、ハニガンは僅かに微笑んだ。
各地で小規模ながらもバイオテロの発生が続き、最近は休みを返上して働いていた。
ひとまず沈静化したので、ようやく念願の休みが取れるのだ。

「……ハニガン?」

後ろから男の声がして、ハニガンは笑みを消した。
聞き覚えのある声に、足を止めて振り返ると、そこには見慣れた男の顔があった。

「レオン?」

レザージャケットを羽織った、いつも通りの格好をしたレオンが片手を上げてハニガンに歩み寄る。
いつもと違うのは、仕事中では当たり前のように右太股付近にセットされたホルスターがない事くらいだ。
「お疲れ、そっちも今帰りか?」
追いついたレオンはハニガンの右側に寄り、そう声を掛けると、歩調を合わせて歩き出した。
「そうよ、ようやく開放されたわ。……貴方もそうなんでしょうけど」
「開放か……、そうだな、取り敢えず今夜はゆっくり過ごせそうだな。お互い」
苦笑したレオンの長い睫毛が揺れるのを見て、ハニガンは目元を細めた。
レオンの目の下には酷い隈が出来ている。
「狙ったのかのように色々勃発したものね。ご苦労様」
「ああ」
「闇市場が活性化してるようだから、一時の休息にしかならないだろうけど、今夜はしっかり休んでちょうだい」
レオンは片眉を上げて、チラと空を見る。
「闇市場、か……」
続けて、「厄介な状況になってきたな」と小さな声で呟いた。それは傍らを歩くハニガンの耳にも届き、
同意するようにハニガンは軽く頷く。この先、バイオテロが増えていくのかと思うと頭が痛い。

暫く無言で並んで歩き、ようやく沈黙に飽きたハニガンは、別の話を、と口を開いた。
「暗い話はニュースと仕事中で散々耳にしてもう沢山だわ。明るい話は無いの?」
肩を小さく竦ませて、レオンが問い返す。
「世の中的に?個人的に?」
「どっちでも」
唸るようにレオンが曖昧な声を漏らし、横目でハニガンを見る。
「……犬が、居るんだ」
「犬?」
思ってもみなかった言葉がエージェントの口から出た事に内心驚きつつ、ハニガンは横を向いてレオンを見上げる。
「そう、犬」
「どんな?」
「大きな犬」
レオンはジャケットのポケットから両手を出して、ジェスチャーで大きい丸を描いてみせた。
わざわざそうして貰っても、曖昧過ぎてどんな犬種なのかが全く想像出来ず、ハニガンは眉を顰めて例えを探す。
「『アニー』に出てくるサンディみたいな?」
「……それどんな犬だ?……大きな犬だよ」
どんな犬だって聴いてるのは私よ、と返したい衝動を堪え、ハニガンは「あらそう、続けて」と答えた。
「エサが必要だろ」
「そりゃそうね」
「だから、帰りに隣り駅のモールに寄らないといけないんだ」
それの何処が明るい話なの、とハニガンは呆れる。
確かに、隣り駅前にあるショッピングモールは、ここらでは遅い時間まで営業しているけれども。
疑問を投げかけようと見上げた先にあるレオンの顔は朗らかで、ここ暫く、
任務中は常に顰めっ面のレオンと交信していたハニガンは目を丸くした。

「……。その犬、最近飼い始めたの?」
「ペットじゃないんだ」
ああ、とハニガンは曖昧な返事を漏らした。
不規則な任務をこなさねばならないレオンに、毎日朝晩、餌と散歩が必要な犬など飼うことは不可能だ。
概ね、ハニガン自身は余り好まないものであるが、レンタルペットなどだろう。それだったら、犬種すら曖昧なのも納得出来る。
ハニガンはそう推測して、レオンに話を続けさせる事にした。
「名前はなんていう犬なの?」
問いかけると、レオンは歯を見せて笑った。
余計珍しいものを見てしまった、とハニガンは息を呑んだ。熱でもあるの?と心配したくなる。
「クリス」
「クリス?じゃあ雄ね?」
「そう」
丁度そこで地下鉄の駅の入り口へ着き、ふたりは揃って階段へ足をかける。階下から生暖かい風が流れてきた。
「こんな寒い夜に動物とベッドで眠るのって暖房代わりになるじゃない?羨ましいわ」
ハニガンは正直な気持ちを述べた。
昔、猫を飼っていた友人が、『冬場は、愛猫と眠る事がこれ以上ない位幸せだ』と言っていたのを思い出す。
「暖かいけどベッドが狭くなる」
そう文句をつけるレオンの顔は綻んだままだ。
やはり、こんな寒い日に愛する動物と一緒に床に入るのは、幸せな事なのだろうとハニガンは思った。
「まぁ、大型犬じゃ仕様がないじゃない?」
「……そうなんだが……。思い切って、今度もう少し大きいサイズのベッドに買い換えるかな」
改札を通り、ホームへ向かう。不快な金属音を豪快に立てタイミング良く電車が滑り込んできた。足を速める。
ぷしゅ、とドアが閉まると、ハニガンはホッと息を吐き改めてレオンの顔を見た。
「ベッドまで買い換えようなんてよっぽど犬が好きなのね。意外だわ、レオン」
「ベッドを買い換えたら、招待しようか?」
目元を細めてサラリと云うレオンに、ハニガンは負けじと極上の笑みを浮かべる。
「話を伺っただけで結構よ」
レオンはまた肩を竦めてみせると、右手で前髪を掻き上げた。
もたれ掛かったドアの、ガラスに映った自分の顔を見つめて大袈裟に溜息を零す。
「それは残念だな」
「そうね、残念ね」

がたん、と揺れて次の駅に着いた。駅前にまだ営業中のモールがあるにも関わらず、ホームで電車を待つ人は僅かだ。
レオンはガラス越しに誰かを探すようにホームを見つめ、「クリス」と呟いた。
たまたま腕時計を見ていたハニガンは、レオンの視線の先には気付かない。
「ああ、餌を買うんでしょ?犬の」
時間を確認するとレオンへ視線を戻した。
レオンは頷き、ハニガンの方へ振り返ると、少し屈んで頬にキスをした。電車がようやく完全に停止して、ドアが開く。
「ハニガン、良い休日を」
柔らかく微笑んで、レオンは電車を降りていった。

ハニガンは数度瞬きをして、レオンの行く先を目で追った。
改札出口へと続く階段とは逆方向へ歩いていくレオンに「そっちじゃないわよ、レオン!」と声を掛けるか迷ったところで、
レオンの歩く先にひとりの男が電車に乗らず只立っているのに気付く。
その男はレオンに向かって軽く手を挙げ、レオンもそれに応えるように歩調を速めた。

ぷしゅ。

ドアが締まり、がたん、と車両が揺れた。ハニガンはドアのガラスに手をあてて、遠ざかるレオンの姿をなんとか長く見ようと試みる。
目の前にレオンが立つと、男は、笑みを浮かべた。背も高ければ、体格も、レオンよりずっと逞しい。
見事に鍛えられた太い腕をレオンの腰に回すと、ふたりはゆっくり歩き出した。
男は、レオンの耳元に囁くように唇を寄せる。

そこでとうとう見えなくなり、ハニガンは額をガラスに付ける。ひんやりとした感触が、先程のレオンの言葉を思い出させた。
「……そう。そういう事。……犬、ね……」

(そりゃーあんなデカイのと一緒に寝たらベッドは狭いでしょうよ……!!!)

自分の今の顔は恐らく、厳しい任務中のエージェントより、ずっと険しい顰めっ面をしていることだろう。
ハニガンは心の中で散々毒突くと、今夜は酒を飲もうと決めた。






...end...


□□□□□□あとがきもどき。□□□□□□ ハニガンを絡ませたクリレオ。 クリスに会える喜びを、誰かにちょっと云ってみたかったレオン。 うまく隠したつもりが全然バレバレ。駄目すぎるエージェント。 2008.10.27 ≪back